2007/04/30 (Mon)
「だが私の主はお前だけだ。何があっても変わらない。それだけは憶えておいてくれ」
紅く深い瞳に鈴は魅せられていた。暖かい、美しい紅い瞳に。
誰も悪いわけではない。
自分がこんな気持ちになってしまうのは・・・・・
紅簾の言葉は、不思議だった。自然と安心してしまう。
しかしその瞳は、今の鈴には胸を押しつぶすかのような感覚を与えるだけ。
あまりにも似ているから・・・・・
「どうした。まだ調子が良くないのならば休むといい」
鈴の戸惑いを感じたのか、紅簾は部屋から出て行こうとする。それを、鈴は反射的に紅簾の袖をつかんで止めていた。
「ご・・・ごめんなさい」
ぱっと手を離すと、紅簾は鈴の隣に腰を下ろした。
心細くなんてないはずなのに・・・・・・
恥ずかしくなって鈴が俯くと、ぽんぽんと頭を撫でられた。それが心地よくて懐かしくて鈴は紅簾の肩に体を預けた。
この温もりさえも兄と同じ。暖かい唯一の温もり。
「兄さま・・・・・」
口に出してしまうと、分かっていても悲しくなってしまう。
涙が溢れそうになって慌てて拭おうとすると、その手を紅簾が止めた。
「・・・・・泣いてしまえ。気が済むまで泣くといい」
その言葉が呪文だったかのように、鈴の目から次々と水晶のような雫が落ちた。
止まることを知らないように流れ落ちる涙は、紅簾の手に当たって砕ける。
「また・・・・泣いているのだな・・・・・・」
紅簾は砕けた涙を見つめながら、鈴に聞こえないように悔しそうに呟いた。
今の彼は鈴の傍にいることができる。――今までと違って。
そうだからこそ悔やんでしまう。傍にいるからこそ、守ることができなかったことが悔しくてたまらない。
「すまない」
「え?」
鈴は涙をぼろぼろと落としながら、紅簾の顔を見た。
「なんでもない」
やわらかく笑うと、左手で鈴の目を覆った。
「これからのことは、ゆっくり考えればいい。お前がどうしたいのか、何を望むのか、私はそのためにすべてを尽くそう。だから、気が済むまで泣いたら笑ってくれ。それが私の望みだ」
「うん」
それだけが彼の望み――
コンコン
鈴の涙が大分治まった頃、部屋にドアを叩く音が響いた。
「どうぞ。」
鈴が入室の許可を与えると、訪問者が部屋へと入って来た。
闇に溶けるような漆黒の髪を持ち、その瞳さえも夜のような黒。まるで夜そのものがそこにいるかのようだった。
「久しぶりだな。六年ぶりか。」
発せられた声には親しみがこもっていて、警戒心を抱かせない。
それゆえか紅簾も僅かに動いたものの、彼に傷を与える気はないようだ。
「・・・・・・・・」
鈴が黙っていると彼は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「・・・・まさか忘れたと言うのか。あの緑輝く森でのことを。俺はこの六年間一度も忘れたことなどなかったというのに。約束だって忘れなかった。」
そう言う彼の顔には見覚えがあった。
昔、何処かで・・・・・・
――なら約束だ。覚えていろよ、鈴。
記憶と目の前にいる男の姿が重なる。その瞳は昔と変わらずに。
「琉砂・・・・・?」
そう言うと琉砂は朗らかに微笑んだ。
昔たった一人だけの秘密の友達がいた。
鈴が一人で森へ散歩に出かけたとき彼は狩をしており、鈴を獲物と間違えて矢を放ち、矢は外れたものの鈴は湖へと落ちてしまった。
それを琉砂はあわてて助け、いろいろと世話を焼いたのだった。
その時、鈴が自分は誰にも知られない皇女ということを言ってしまったが、琉砂は誰にも言わないと約束してくれた。
そして、友達になってやると。誰も友達がいないのなら友達になってやると言った。
もう一つの約束とともに。
「どうしてこんな所に琉砂がいるの。確かあなたの家は遠いはずよね」
「ああ。だが久しぶりに鈴の顔を見ようかと思って着てみたら屋敷にはいないし、どうしたんだろうと城に忍び込んでみたら、怪しげな気配が漂っていたんでな。これは何かあったんだろうと思って少し調べたんだよ。そしたらここに着いたってわけさ」
「城にって、危ないわよ。それにそんな簡単に私の居場所って見つかるわけ?」
「いや、俺にはちょっとした情報網があってそれを利用した。これでもかなり探したんだぜ。」
自慢げに彼は言う。
その様子を紅簾は静かに傍観していた。
2007/04/26 (Thu)
これは小説が進んでいくごとに随時変わっていきます。
*鈴(すず)
この物語の主人公。16歳。
春桜(しゅんおう)国の皇女。
兄である怜悧よりも力が強いために、存在しないことになっている。
皇獣は紅簾。
*紅簾(こうれん)
鈴の皇獣。19歳。
人の姿になったり、獣の姿になったりする。
鈴のことを第一と考えている。
*怜悧(れいり)
鈴の兄。18歳。
春桜国の皇太子。
鈴を守ろうと考えていたが、自分の皇獣である翠楼に自我を抑えられ、鈴を殺そうとした。
*妖花(ようか)の翠楼(すいろう)
怜悧の皇獣。23歳。
怜悧を操り、何かを企んでいる。
獣のときの姿は鳥のようだが・・・・・
*琉砂(りゅうさ)
鈴の秘密で唯一の友。18歳。
鈴と二つの約束をしており、かなり凄い情報網を持っている。
腕もなかなかのもの。
今のところこのくらいでしょうか。そのうちにどんどん増えていきますので、気長に付き合ってくでさると嬉しいです。
2007/03/16 (Fri)
鈴は木に寄りかかりながら怜悧が来るのを待っていた。
彼女は、その瞳と同じ碧いドレスの上に紅いコートを羽織っていた。銀色の髪はそのまま下ろしており、光を受けてきらきらと輝いている。胸には怜悧が鈴の誕生日に、信託にちなんで贈った、雫型の紅玉の首飾りがある。
冷たくなった手をこすり合わせながら空を見た。
空は晴れから曇りに変わり、今にも雪が降ってきそうな雰囲気だった。
――兄さま、まだかな・・・・・・
鈴が心細くなってきたとき、後ろの茂みからガサッという音が聞こえてきた。
木から離れ後ろを見てみると、儀式用の衣装をまとった怜悧が立っていた。
右耳には鈴があげた青玉の耳飾りをしている。
鈴はいつもとは違う怜悧の姿に一瞬見とれ、はっとしてそれをごまかすように尋ねた。
「兄さま。きちんと呼び出すことができましたか?」
「・・・・・・・・・」
怜悧は無言で立っていた。
普通ならば疲れているのだろうと思うのだが、兄のまとっている空気と、いつもなら疲れていても、微笑んで答えてくれるはずの兄が、何も答えないことに、鈴は不安を覚えた。
「兄さま?」
その心に生まれた不安を確かめるように、鈴はゆっくりと怜悧に近づいていった。
――嫌な感じがする。
心の底で感じた、直感と呼ぶべきものが警鐘を鳴らしている。
しかし、鈴はそれに構わずに歩みを進めた。
怜悧まであと数歩というところで、彼は呟いた。
「お前がいると、俺は皇帝になれない・・・・。お前はいらない。邪魔だ・・・・。」
怜悧はそう言うと、緑の瞳を鈴へと向けた。
その瞳に光はなく、どこを見ているのか分からないほどに虚ろだった。それ故か、いつもは鮮やかな緑に見える瞳が、曇った深緑に見えた。
明らかにいつもの怜悧と違かったが、鈴の心を乱すには十分だった。
「・・・・・・!」
今まで慕ってきた兄に邪魔だと言われ、体に雷を受けたように動けない鈴に向かって、怜悧は腰に佩いていた剣を突きつけた。
「兄さま・・・・・・」
鈴は一歩も動くことができなかった。
信じられなかった。分からなかった。
あんなに優しかった兄が、どうしてあんなことを言うのか。
何があっても守ると言ってくれた兄が、どうして自分に刃を向けるのか。
そして、頬を伝っている雫が何なのかも。
その雫で鈴の紅い首飾りが濡れ、首飾りそのものが彼女の心となる。
「そうよ。そのままその愛しい妹を殺してしまいなさい。」
突如どこからか、よく通る、そして魅惑的な声が響いた。
鈴は何とか辺りを見渡してみると、怜悧のすぐ後ろに、青に薄く灰色をかけたような色の白鳥ぐらいの鳥がいることに気付いた。
その鳥をじっと見つめていると、鳥から力の流れが感じられた。
「あなた、兄さまの皇獣?」
思ったまま言ってみると、鳥はへえーと目を細めた。
「やっぱり、あなたには分かるのね。さすがだわ。紅玉のお姫様。」
鳥は鈴の足元まで来ると、羽で地面をぺしぺしと叩いた。
何をしているのだろうと思っていると、鳥は一言いった。
「座りなさい。」
鈴は言われた通り座った。先ほどの衝撃も、鳥の登場で少し和らいだようだった。
しかし、気を許してはならないと直感が告げていた。
鈴が警戒したのも気に留めずに、鳥はくつろいだように話し始めた。
「私は妖花の翠楼よ。あなたの言う通り怜悧の皇獣。と言っても正しいパートナーではないけれどね。本当は、私の兄がこの子の皇獣のはずだったけれど、私が奪ったの。あ、妖花っていうのは私の敬称のこと。それで、この子があなたも皇獣を呼び出せるって聞いたから、邪魔だと思って殺そうとしたの。それもあなた紅玉って話じゃない?もっと厄介になると思ったのよ。それにこの子、あなたのことばっかり話すからうるさいし、殺しなさいって言ったら、嫌だって言って聞かないからちょっと術かけちゃった。」
「私にそんなに話していいのですか。」
べらべらとしゃべる翠楼にいぶかしげな視線を送ると、翠楼はうっとりと笑った。
「いいのよ。どうせあなたは死ぬんだから。」
そう言うと鈴の後ろに回ったり、羽で髪に触れたりと無遠慮に鈴を観察しだした。
翠楼がそうしている間に、鈴は怜悧をちらりと見た。
怜悧は相変わらず鈴に剣を向けている。その姿を見るだけでも、鈴は体の芯が揺らいでしまう気がした。しかし、先ほどとは違い、やや冷静さを取り戻した鈴は、兄にかけられた術を解くことを第一と考えた。
今この状況で自分にできるのは、これくらいしかないからと。
「兄にかけた術を解いてください。私が死んでしまえば、兄さまに術をかける必要はないのでしょう?」
自分を殺すために兄に術がかけられたのならば、自分が死んでしまえば術をかけている必要はないはずだ。そう考える鈴の心を見通していたように、翠楼は甘く微笑んだ。
「駄目よ。解いちゃったら意味がないじゃない。」
「意味?」
兄に術をかけたのは自分を殺すためだけではなかった?では、なんのために・・・・・?
鈴が必死に考えていると、翠楼はまるで埃を払うかのように羽で体を軽く叩いた。そして、怜悧の方を見ると、さもつまらないように言った。
「さて、お話はそろそろ止めにして、さっさと城に帰りましょうか。」
城に帰る。それはつまり、鈴を殺すということ。
鈴がその意味を察して立ち上がったが、怜悧が横で剣を構えていたのでそれ以上動くことができなかった。
「さあ、怜悧。」
翠楼がそう言うと、怜悧は構えていた剣を振り上げ、鈴に向かって振り下ろした。
鈴はとっさに目を閉じたが、いつまで経っても痛みがこなかったので、ゆっくりと目を開けた。その瞳に映ったのは、鈴に刃が当たるか当たらないかの寸前のところで、剣を止めていた兄の姿だった。
瞳には光が戻っており、怜悧の意志がそこにあることを示していた。しかし、翠楼の術に必死に抗っているのか、歯を食いしばり剣先は震えている。それでも、鈴から少しでも離れようと、一歩一歩後ろへと下がっていく。
「兄さま。」
「来るな!」
近寄ろうとした鈴に怜悧は叫んだ。
今、鈴が近づけば、ぎりぎりで押さえ込んでいる術が、再び自分の心を侵してしまう。そうなってしまえば、自分は鈴を躊躇いもなく鈴を殺してしまうだろう。それだけは回避しなければ。今の俺にはそれしかできないからな。
怜悧はふと笑った。自分が守ると言っておいて、自分の皇獣に術をかけられ、それで自ら鈴を殺そうとするとは。兄失格だな。
そう考えながら鈴の方を見みると、精一杯の笑顔で笑った。鈴が心配しないようにと。
「鈴、行くんだ。ここから早くっ・・・・・・」
――やばい!限界か!
怜悧の顔が苦痛に歪む。それから胸を掻きむしるようにして倒れこみ、荒い呼吸を繰り返す。それを遠くで翠楼が眺めていた。まるで私に逆らうからだと言わんばかりに。
「兄さま!」
そんな兄の姿を見て、駆け寄ろうとした鈴の姿を怜悧はぼんやりとした視覚で捉えた。これではいけないと思いつつ、体が全く言うことを聞かない。ならばと怜悧は、体の中で何かが暴れているような痛みに堪えながら、声をしぼり出した。
「生きろ!なんとしてでも生きるんだ鈴!行け!」
――兄さま・・・・・・!
鈴は一瞬泣きそうな顔をしてから、怜悧に背を向けて森の中へと走っていった。
――鈴・・・無事で・・・・・
鈴が走り去っていった方を見ながら、怜悧は体の中で荒れ狂う痛みと闘っていた。
翠楼は、そんな怜悧を冷ややかな瞳で見下ろすと、手を怜悧の額にのせ、何かを低く唱えた。すると、怜悧の瞳から徐々に光が失われていき、表情も無機質なものになっていった。
「さーて。どうしましょうね。紅玉のお姫様?」
そう呟く翠楼の真上には、冷たく輝く月が昇っており、月に照らされた彼女の姿はもう鳥の姿ではなかった――
「ん・・・・うん・・・」
暖かい温もりと優しい薬草の匂いに誘われて、鈴はゆっくりとまぶたを開いた。
起きて辺りを見渡すと、木の壁に薬草が所どころつるされていて、小さな窓からは日の光が差し込んでいる。そして、レンガで造られた暖炉には火が燃えていた。
「ここは・・・・」
そうつぶやいていると、ドアが開き青年が入ってきた。
彼の髪は紅く、その長い髪は後ろでひとまとめに結んでいた。同様に紅く透き通った瞳は、鋭い印象があるが瞳に宿っている光が今は暖かいものなので、冷たくは感じられない。
そして、服の上からでも無駄な肉が一切付いていないと分かる体は、鈴より少し背が高かった。また、彼の動きには無駄というものがなく、その手に握られているコップの中の水はまったく揺れていない。
「起きたのか。」
青年の発した声はまるで澄んだ水のような優雅さがあり、それでいて凛としていて聞いていると心地よい印象を鈴に与えた。
「あの・・・・」
「まずはこれを飲むといい。」
のどが渇いていた鈴は、差し出された水を受け取ると、言われた通り一口飲んでみた。水はとても冷たく、少しぼんやりしていた頭をすっきりさせた。
残りの水をすべて飲み、青年の方をみると、ほのかに笑みを浮かべていた。
「美味しかったか?」
先ほどの笑みを浮かべたまま青年は尋ねた。
「はい。」
それは良かった、と笑う彼につられたように鈴も自然に笑っていた。
「もう少し眠るといい。」
鈴は、そう言って立ち上がった彼のそでをつかんだ。
「あの・・・紅簾・・・・紅い獣を知りませんか?私の大切な友人なんですが。」
それを聞いた彼は一瞬きょとんとして、くくくくと小さく笑いだした。
笑われたことに怒った鈴は顔をしかめた。
「笑うことではありません。」
「すまなかった。そういえば、あの時はこの姿を見せていなかったな。」
そう言い、鈴から少し離れた。紅簾の瞳の輝きが鋭くなったと思うと、一瞬炎で包まれ獣の姿になっていた。
そして、再び炎に包まれると人の姿に戻っていた。
変化を見て目を丸くしている鈴に向かって紅簾は言った。
「この通り、私が紅簾だ。」
「人の姿にもなれるの?」
「人の姿になれるのではく獣の姿になることができるのだ。人の姿が本当だよ。」
もっともだれも知らないが、とつぶやく彼が紅簾だというのにも驚きだが、今まで皇獣が人の姿だというのにも鈴は驚いた。
「でも今までお父様の皇獣が人の姿になったことはなかったわ。」
鈴の父であり現皇帝である清漣は、水を操る皇獣を使役していたが、その皇獣が話すことはあっても、人の姿になったのを見たことはなかった。
「それは、自分が仕える者意外に自分の姿を見せたくないからだろう。私とて、自分の本性を鈴以外に教える気はない。」
「でもその姿でいたら誰かに見られてしまうのではないの?本性を知られたくないのでしょう?」
「たとえ、この姿を見られたとしても、私が皇獣だとは思わないだろう?現に鈴が私を見ても私が紅簾だとは気付かなかった。つまりただ気付かないだけで、実は清漣の皇獣の本性を見ているかもしれないということだ。結果として、人としての姿を見られることは気にしないが、皇獣として人の姿を見られることは避けるべきことということになる。分かるか?」
紅簾のなんとも言えない説明は、ただただ鈴を混乱させるだけだった。
2007/02/22 (Thu)
「はぁ・・・はぁ・・・・くっ」
一面雪で覆われた森の中を一人の少女が銀色の髪をなびかせ全力で走っていた。
その髪は月の光に照らされてきらきらと輝き、まるで天使が雪の上に舞い降りたかの様だった。しかし、彼女の碧い瞳は戸惑いと悲しみで彩られていた。
その後を全身を黒でかためた五人の男たちが追っていた。
「あ。」
木の根に足をつまずかせ雪の上へと転んでしまった。
この機会を逃がすまいと、男たちは得物を少女へ向ける。
「申しわけございません。」
頭らしき男は一言そう言うと月に照らされ冷たく光る刃を振り上げる。
少女は次に来るであろう痛みに備えて目をつむった。
しかし、痛みは訪れず、代わりに聞こえてきたのは男のうめく声だった。
目をそっと開くと、目の前に紅の獣が立っていた。
その額には、金色に輝く角が生えており、瞳は紅い宝石のように透き通っている。体躯は狼のようで、すらりとした四肢にふさふさとした尾が彼女の目を引いた。
獣の足元には男が一人倒れていた。そして、地を一蹴りするとその鋭い爪で三人の男たちを瞬時に倒した。
周りに血が流れ、白かった雪が紅く染まった。
「何者だ。」
先ほど少女に得物を向けていた男は問うた。
すると、獣の紅い瞳がすぅっと男に向けられた。その瞳には明らかな殺意が込められていた。
「お前ごときに答える筋合いはない。」
その瞳と同様に透き通って凛とした声が辺りに響いた。
だが、と口元に笑みを浮かべながら獣は言った。
「あえて言うのならば、皇族に使える者とでも言っておこうか。」
そう答えに男はまさか、と息を呑んだ。
「皇獣!」
その答えに獣の笑みはさらに深くなった。
「皇獣・・・」
少女は寒さと疲れが溜まり、次第に薄れていく意識の中その存在のことを思い出していた。
皇獣は、主に皇族の中でも特別力のある者にだけ呼び出すことのできる獣である。
そして、自分の主の命令は絶対であり、その命を脅かす者には死しかあたえない。
「覚悟しろよ。」
皇獣が男に向かって地を蹴った。
今にも爪が男の首を引き裂こうとしたとき少女が叫んだ。
「やめて!もう人を殺さないで。」
少女の碧い瞳に見つめられて皇獣がさがった。さがった皇獣は木に背を預けている少女の許へと向かう。
「鈴様・・・・・」
男は少女を鈴と呼び、剣を鞘に収めた。
「鈴様。私はあなたを・・・・命のある限りあなたを殺さなければなりません。」
「ええ。でも、もう私のせいで人が死ぬのは嫌なの。だから、帰って。」
「しかし!このままでは・・・」
彼は鈴に近寄ろうとしたが、傍に控えていた皇獣に唸られて近寄ることができなかった。
「ね?」
「分かりました。」
鈴に念を入れられてそう答えることしかできなかった。
男は彼女に背を向けて立ち去ろうとした。
しかし、ザッと振り返り、鞘に収めていた刀を抜き、彼女へと斬りかかった。
それを皇獣が防ぎ、彼の首を爪で引き裂いた。男が地面へと崩れ落ちる。
「どうして・・・・・」
鈴は信じられないというように呟いた。
彼はそっと、目を開け彼女の瞳を見つめた。
「私は・・・あなたを一度でも、この手に掛けようとしました・・・心優しいあなたを・・・」
男の顔には後悔の色が浮かんでいた。
「どうか・・・お気・・を・・・付けて。」
そう言うと彼は、ゆっくりと目をとじた。
「どうして・・・・死ぬ必要なんて・・・なかったのに・・・」
彼女の目から涙があふれた。その涙を皇獣が優しくなめとる。
「奴は、許せなかったんだ。たとえ、あいつの命令だったとしても、お前を殺そうとしたことを。奴が望んだことだ。」
「でも・・・でも!」
後から後から溢れてくる涙を隠すように、鈴は皇獣のふさふさとした首にしがみ付いた。
彼女自身、なぜ初めて会ったこの獣に心を許すことができるのか分からなかった。
「大丈夫だ。私がいる。だから・・・・」
皇獣は、再び彼女の涙をなめると、優しげに目を細め、前足を折る。
「私の名は紅簾。私が唯一主と認める者よ、その心と意志が折れぬ限りお前を守り、この身と心をお前だけのために尽くすことを誓おう。」
「こう・・・れん・・?」
さすがに、疲労と寒さで意識を保つことができなくなってきた鈴は、意識を何とか保とうと自分の手首を強く握った。
それを見た紅簾は、寒さで冷え切った鈴の体を、自分の体で包むように丸まった。
「疲れたんだろ?安心して寝ていいぞ。私が付いているから。」
鈴は紅簾の優しい声を聞いて、ゆっくりと目を閉じた。
紅簾の匂いは、まるで陽だまりのように優しく、そして暖かく感じた。
鈴が完全に眠ったのを確認して、紅簾は体を動かし、涙の痕が残る彼女の顔を見つめた。
そして、その涙の痕をそっとなめて、口を開いた。
「そう。嫌なことも、悲しいことも、今は忘れて眠るがいい。すべて、私が背負うから・・・。だから・・・だから、鈴・・・・」
その呟くような声は、誰にも届かなかった。
彼女は幸せだった。たとえ、彼女の存在を知る者がこの世界に数人しかいなくとも・・・・
この世でその存在を知っているのは、彼女の父である皇帝と母である皇后、彼女の世話をする数人の召し使い。
そして、皇太子である彼女の兄、怜悧だけである。
「兄―さま!」
鈴は雪で白くなった庭に大好きな兄の姿を見つけると、二階のベランダから飛び降りた。
「鈴!」
その姿を認めると怜悧は妹を受け止めようと、彼女へと手を伸ばす。
そして、鈴の体を受け止めると、そのままぎゅっと抱きしめた。
――お日様の匂い・・・・兄さまの匂いだ。
鈴は怜悧のことが大好きだった。
どんな時でも鈴のことを守ってくれる。
彼女が悲しい時や寂しい時は、いつもそばにいてくれる。
父や母よりも兄のことを頼っていた。
しばらくして、鈴の体を離すと、怜悧は緊張の糸が切れたように雪の上に座り込む。
「鈴。二階から飛び降りてはいけないと、いつも言っているだろう。」
いつものように注意する怜悧の水色の髪を撫でながら、彼の目線に合わせようと鈴もしゃがみ込む。
そうして、彼の緑色の瞳を見つめながら、久しぶりの兄の姿にほっとしていた。
「だって、最近ぜんぜん来てくれなかったじゃないですか。」
「ああ、ごめんよ。もうすぐ召喚の儀式なんだ。準備だとかなんかで、まったく城を抜け出せなかったんだ。俺だって会いたかったんだ。」
怜悧はすねた様に顔を背ける。
こういう時の兄はかわいいと思う。
くすくす、と笑う鈴を見て、安心したように怜悧も微笑む。
「安心したよ。しばらく来れなかったから、また泣いているんじゃないかと思って。」
「大丈夫。だって、兄さまが来てくれるもの。」
すると怜悧は、困ったような悲しいような顔をして目を伏せた。
「ごめん。俺のせいでお前には寂しい思いをさせているね。普通ならこんな所でなく、城で暮らしているはすなのに。友達だって・・・・・」
自分のせいだと言う怜悧の唇に、鈴は自分の人差し指をあてて言葉の続きをさえぎった。
「いいの。」
だが、皇女である鈴が城ではなく、人里離れたこのような場所に住んでいるのには理由があった。
この国では生まれてすぐ、珠玉の樹により信託を受ける習慣があった。
鈴も生まれた時、珠玉の樹から信託を授かった。
『強き力。純粋で気高き、透き通るような力。この者は紅玉。青玉より遥かに強き力。』
紅玉と言われた鈴の力は、青玉である怜悧よりも強いことになる。
だがそれでは、二人の皇位争いになりかねないと考えた皇帝は、愛する娘の存在を世間から隠した。
その結果、鈴を知っている者はほとんどいないことになったのだ。
「それに兄さま。もう大人になるのですから、俺ではなく私と言わなければなりませんよ。」
「そうだった・・・・」
「くれぐれも家臣の前で、俺なんて言わないで下さいね。あきれられますから。」
怜悧は、妹の説教に分かったと返事をしてから、はっと思いついたように言った。
「なあ鈴、皇獣を召喚したら、清氷の湖で落ち合わないか?俺・・・私の皇獣を見せてあげるよ。あそこなら私達しか知らないし、ここの近くだ。」
「いいのですか!私が見てもいいのですか!」
鈴はとてもわくわくしていた。皇獣は力の強い者にしか呼び出すことができないので、今まで父の皇獣しか見たことがなかったのだ。兄の皇獣はいったいどんな姿なのだろうと、あれこれ思い浮かべてみた。
そんな鈴の表情を、怜悧は顔をほころばせながら見ていた。
「もしここに皇獣を連れてきたら、お前が皇族だというのがばれてしまうからな。」
ここの召し使い達は鈴のことを、どこかの高位貴族の娘であり、人が大変苦手で、都から離れたこの地にいると説明されているので、皇獣など連れてきたら皇族ということがばれてしまうのである。
「召喚の儀式はいつ行うのですか?」
ふと鈴は聞いた。
普通、召喚の儀式はその者の十八歳の誕生日に行うのだが、稀に違う日に行うこともある。
そして、皇獣を呼び出すことが出来れば、皇位継承権が与えられるのである。
「もちろん十八歳の誕生日の日。あさってだよ。」
そう言う怜悧の瞳には、自信と不安が宿っていた。
それを見た鈴は、兄を励ますように微笑んだ。
「では、楽しみにしています。しっかりと呼び出して下さいね。でないと、しばらく口を利きませんから。」
鈴の言葉に怜悧は一瞬きょとんとした。そして、いったん目を閉じて、次に目を開いた時にはその瞳に不安はなく、あったのは自信だけだった。
「もちろんだ。」
自信たっぷりに言うと、鈴の手を取り屋敷の中へと入っていった。