2007/02/11
2009/03/17 (Tue)
『貴方を待ち続けましょう・・・』
月を映す湖。
その静かなる水面に波紋が広がり、止まることを知らぬように水岸へとたどり着く。
辺りの木々達は、静寂を守るように沈黙を続けていた。
「・・・・・・白麗(ハクレイ)」
男の声が風に溶ける。
その瞬間から、ここは神聖な場所となる。
水面の月が揺れ、湖自体が淡く光りだす。
男はそれに驚くことなく、ただ前を見つめている。
まるで、愛しいものを見るように。
湖の中央に現れたのは、1頭の鹿。
その身に纏いし白を月の光で白銀に染め、揺らぐことのない碧い瞳に男を映す。
どこまでも白く、美しいそれは水に沈むことなく、ゆっくりと男の方へと歩いてゆく。
鹿が男の前まで来ると、男はそっと手を伸ばし、鹿の頬に触れた。
「・・・白麗」
白麗と呼ばれた鹿は、その声に嬉しそうに目を細めて、男の手から離れた。
『・・・久しいですね、黒醒(コクセイ)』
鈴を鳴らしたような声が男、黒醒の頭に響く。
黒醒は懐かしむように笑いながら碧い瞳を見つめた。
「・・・あれから、三百年は経ったからな」
『・・・・・・もう、そんなに経ちましたか』
「ふっ、お前は眠っていたから、あまり感じないないだろうがな。人の世は変わったぞ」
『その様子だと、貴方は相変わらず、人に紛れているようですね』
くすくす、と響く音色が心地よく、自分とは正反対の白が、何よりも愛おしい。
三百年など、彼らにしてみれば大した時間ではない。
しかし、例えそうであっても、この穢れのない白が傍らに居ないことは苦痛でしかなかった。
それでもなお、人に混じるのは――
『私を、守って下さったのでしょう?』
この場所が、以前と変わっていないことがその証拠。
愛しい白の場所を守るためには、人として生きるほかなかった。
穢れに弱い白麗を守るために。
『・・・すみません。貴方に、苦労をかけてばかり・・・・・・』
「・・・・・・今更だな、白麗」
苦しそうな白麗に笑ってやる。
「人に紛れるのは、お前を守るためでもあるが、観察してみると、人というのもなかなか面白い生き物だよ。弱いくせに、変なところで強い。喜びや愛情、悲しみ、憎悪。様々な感情があの小さな器に入っているんだ。
穢れも強いが・・・あれらの観察も悪くない」
だから、気にするな。
『・・・・・・はい』
泣きそうな声で返事をする白麗に、愛おしさが増す。
白麗の頭を抱き寄せ、額に優しく口付ける。
目を閉じ、互いに額を合わせれば、すべての感覚が満たされていくのを感じる。
『・・・夜が、明けます』
空は白み、あと少しすれば朝日が差すことが知れる。
『行くのですか・・・・・・?』
碧の瞳が紅の瞳を見つめ、そっと腕に擦り寄る。
それを優しく抱きとめて、黒醒は苦笑した。
「・・・行かねばなるまい。この場所を穢されては堪らんからな・・・・・・お前と、俺の場所だ」
黒醒は名残惜しげに腕を放し、顔に笑みを浮かべる。
「また来る」
そう言って白麗に背を向けた。
『・・・黒醒!』
「?」
『次は・・・・・・次に来るときは、もっと早く来てください。三百年なんて・・・待たせないでっ』
「・・・ああ。お休み、俺の白麗。良い夢を・・・」
『お気をつけて・・・・・・黒醒』
日の光が差すと同時に、白麗の姿は薄れ、次第に消えていく。
・・・待っています。
姿が消える直前にかすかな音が響き、残ったのは水面の波紋だけだった。
「おやすみ」
優しく呟いて、黒醒の姿もまた、森の奥へと消えていった。
誰も知らない湖のある夜の物語。
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