2008/03/09 (Sun)
年に一度の、大切な人にチョコレートを送る日がやってきた。
春桜国では女性達は皆、心を込めて作ったチョコレートを手に、想う人の元に向かい、男性はお返しに女性に花を渡す。
花の美しさが、男性がその女性に対してどう思っているかを表すのだ。
しかし、誰もが浮き立つこのイベントは、時によって過酷な争奪戦へと姿をかえる。
女性がチョコを送るのは、たった一人。
それをめぐって、男達の戦いが始まるのだ。
だが、それはごく一部の話であって、彼らには関係の無い話。
「・・・・・・これで、よし」
白い包装紙に赤とピンクのリボンでラッピングした、チョコレートとクッキーを詰めた箱を前に、鈴は満足げな笑みを浮かべていた。
今年は去年よりも、うまくできたと思う。
毎年あげていた兄には、今年はあげられないけれど、町を包み込む雰囲気に流されて、ついつい作ってしまった。
「・・・・・・どうしよう」
作ったはいいが、あげる人がいない。
自分を守ってくれている二人に、あげようかとも思ったが、二人だ。
自分があげられるのは、一人。
どちらか一人だけに、あげるわけにはいかない。
ならば、自分で食べてしまおうか。
しかしそれもそれで、悲しいものがある。
「・・・・・・どうしよう」
もう一度同じ言葉を繰り返し、人差し指で箱を突く。
空には青空が広がっていた。
「・・・・・・」
紅簾は何を考えるでもなく、ただ空を見ていた。
透き通るような青に、真っ白い雲が所どころに浮かんでいる。
風はまだ冷たく、たまに雪が降るが、日の光は暖かくなってきており、春が近いことを感じさせた。
『・・・・・・聞きまして?・・・・・・ええ。くすくす』
『本当に・・・・・・。くす・・・・・・楽しいこと』
どうも今日は騒がしい。
至る所から、精霊や動物達の声が聞こえてくる。彼らは一つの話題について、話し合っているようだ。
「・・・・・・騒がしい。何事だ」
紅簾は、近くにいた精霊に言葉を投げかけた。
すると精霊達は、畏まったように膝を折り、軽く頭を下げた状態で話し始めた。
「はい。今日は人間達にとって、特別な日なのでございます」
「特別な日?」
「ええ。今日は、人間達がチョコレートや花を送り、互いの意思を確認しあう日なのです。女はチョコレート。男は花。相手が自分をどう想っているか、ということを知りたいのでしょう」
くすくす、と鈴のような音を響かせる。
「くだらない」
眉間にしわを寄せながら、紅簾は呟いた。彼の視線はずっと空に向いている。
「紅簾様、紅玉の姫も何かを作っていらしゃいましたが・・・・・どこか、悩んでいたようです」
「きっと、どなたに差し上げようか、悩んでおられたのね」
「そうね。紅簾様か琉砂、どちらにしようか迷っておいでなのだわ」
彼女達は再び、くすくす、と笑い始めた。
いつもなら、紅簾がいれば許しを得るまで自ら話をしないのだが、人間達の気に呑まれたのか、彼女達も浮かれているようだった。
次第に騒がしくなってきた精霊達を視界に入れながら、紅簾は眉間のしわを深くした。
「お前達」
紅簾の感情の伴わない声に、一瞬であたりは静まり返った。
「私は、騒々しいのが嫌いだ。消えろ」
「・・・・・・御意」
風と共に姿を消し、完全な静寂が訪れると、紅簾は小さくため息をついた。
「・・・・・・くだらない」
その呟きを聞いていたのは、空だけだった。
どうしようかと悩んでいた鈴は、庭で紅簾が空を見上げていることに気付き、箱を手に取って、庭に続くドアを開けた。
春の気配を感じる風に髪を預けながら、紅簾は不機嫌そうに空を睨んでいた。
「どうしたの、紅簾」
そっと鈴が問いかけると、視線を鈴に向けて、少し和らいだ表情を浮かべた。
「いや、たいしたことではないのだが・・・・・・」
「?」
首を傾げたまま、紅簾の顔を見ていた鈴は、彼の眉間にしわが寄ってきていることに気付いた。
「・・・・・・」
「・・・・・・。・・・・・・」
「・・・・・・騒がしいんだ」
「え、騒がしい・・・・・・?」
紅簾は再び空を見上げて、太陽の光を遮るかのように手をかざす。
「今日は、いつにも増して、精霊や動物達が騒がしいんだ。先ほど追い出しはしたが、風に乗って気配が伝わってくる。よほど浮かれているらしいな。彼らの話によれば、今日は特別な日なのだろう?」
紅簾は皇獣だ。だからこそ、人では認識できない者達の、姿や声を見たり聞いたりできるのだろう。
「ええ、そうね。確かに特別な日だわ」
そう言いながら、鈴は手に持っている箱を眺めた。
どうするとでもなく、時間は流れていく。
「そういえば、琉砂は?」
ふと、鈴は口を開いた。
琉砂の姿を、朝から見ていない。ちょっと出かけてくるよ、と手を振って出て行ったきりだ。そろそろ帰ってきてもいいころなのだが。
不安そうな鈴に、問題ないと紅簾は言う。
「情報集めだ。二日は帰ってこれないだろう」
なるほど、帰ってこないわけか・・・・・・帰ってこない?
つまり、今日はここに紅簾しかいないということ。
すると、これを渡すのは紅簾しかいなくなる。いなくなるのだが・・・・・・。
――いいのかな・・・・・・
なんとなく、申し訳ないような気がしてくる。だからといって、他に渡す相手もいない。
「・・・・・・うーん」
「?」
先ほどから、なにやら考え事をしている鈴に、紅簾は首を傾げる。
「・・・・・・きゃ!」
「!」
そんな彼らの間を、突如、突風が駆け抜けた。
風は鈴の持っていた箱を奪い、空高く舞い上げる。箱はそのまま、風の力を失い紅簾の上へと落ちてくる。
あまりにもちょうどよく、紅簾の手の上へと落ちてきた箱を見て、鈴は紅簾を見つめた。
「・・・・・・ねえ。これって・・・・・・」
鈴の視線から逃れるように、紅簾は目を逸らし、忌々しげに呟いた。
「余計なことを・・・・・・」
紅簾の反応からするに、どうやら風の精霊達が鈴と紅簾に気を利かせたらしい。
「すまない。後で奴らには、よく言っておく」
そう言って、紅簾は箱を返そうとする。
だが、鈴は首を振って、そっと紅簾の手ごと箱を包み込んだ。
「いいの。貰ってくれる?紅簾」
「・・・・・・いいのか?」
視線をやや逸らした状態で、紅簾が呟く。
そんな彼が面白くて、鈴は、くすくす、と笑う。
――悩んでいたのが、馬鹿みたいだなあ。
紅簾の少し照れた様子を見ながら、鈴は思った。
紅簾は、辺りを見回し、庭の一角に目を留めると、そこに向かって歩き出した。
どうしたのかと、その様子を見つめていると、紅簾はしゃがみこみ、振り返ったとき一輪の花を持っていた。
桃色の花弁が、中心から円を描くように広がっている。まるで、何かを包み込むような、優しい印象を持つこの花に付けられた名は――
「・・・・・・夢想花」
花言葉は・・・・・・
優しく微笑む紅簾が、手にした花を鈴の髪にそっとつけながら、耳元で囁く。
「貴女に、絶対の信頼と優しさを」
鈴の手を包み込むように握りながら、紅簾は嬉しそうに微笑む。
「ありがとう」
どこからともなく流れる風は、彼らの周りに白い花を降らせた。